気づくの遅すぎ

私は物心ついたときからかなり「成長する」ということにこだわっている。

出来事の意味を見つける、ということを先日書いたが、その出来事を通して
「成長しているか」がものすごく気になる。


向上心というよりも、「成長した」という実感を得るのが癖なのだ。


3人兄弟の真ん中で悩みながら過ごしてきたおかげで、自分の位置を確かめるのが常だった。
かといって他人の顔色をうかがって立場を変えていたというよりは、内向的に自分に向かっていくタイプで、他人を横目で見ながら自分はどうなのかということを突き詰めて考える。


成長するということには、いろんなフェーズがあると思う。
ひとつに昨日書いた「他人の目をもつこと(他人と自分を比較できること)」があり、
もうひとつに「他人を受け入れること(他人の立場になって考えられること)」があると思う。



私が「成長」の二つめのフェーズに出会うことができたのは、親を受け入れることができたときだ。




本当に頑固者で、親を横目に見ながら「あんな風にはならない」と反面教師に思っていたのが中学生のとき。
高校生の時には反発しすぎて、部屋にこもって父とほとんど口を利かなかった。
浪人生の時に父と大ゲンカして、泣きながら家を飛び出す計画を立てて実行したものの、2日で帰宅した。




親を「受け入れた」きっかけは、大学に入った夏、ちょうど今時分のころだ。


子どもキャンプのボランティアに打ち込みすぎて寝食を忘れていた私に、
父が「人のことに一生懸命になるのはやめなさい、まず自分を確立しなさい」
と言ったのだった。


私は「どうして人のためになることをしてはいけないの?お父さんは人のためになることなんて
全然やってないでしょ!!」と(おこがましくも)言い放ち、
それを見ていた母が泣きながら「何言ってるの!!お父さん、今までみんな育チャンに良いと思って何でもやってきたでしょ!!!」と言ったことだった。



ものすごくハッとした。



「頑な」な私は、自分ばかり悲劇のヒロインになるのが好きで、人と比較しては環境のせいにしていた。
しかもその環境を作ったのは親だと思い込んだりして、まったくもって手に負えない被害妄想ヒロインだった。



母親が泣いているのを見て、「お父さんもお母さんも人間なんだな」と思った。



涙したり、汗したり、傷ついたり、

笑ったり、喜んだり、感動したり、

苦労したり、努力したり、楽しんだり、

そういう(ある意味)泥臭い人間として父や母がいて、私がいて、兄がいて、妹がいて、、
「みんな一生懸命生きているんだ」という一体感のようなものが身体を走った。



それは、自分のからだのなかに他人の存在が入った瞬間だったように思う。
他人も自分と同じ生身の感情を持っている、ということを受け入れられた。



そのことで、「他人を尊重する」「ひとを愛する」ということの準備ができた気がした。
他人は自分なのだ、と気づいた。*1

*1:マヤの言葉に「インラケチ(In Lakechi)」というあいさつ(おはよう、こんにちは、すべてのあいさつがこの一言で済む、というあいさつ)がある。この言葉の意味は「私はあなた、あなたは私」という意味だという。